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ロチェスター(Rochester)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州北西部、オンタリオ湖岸に位置する都市。同州モンロー郡の郡庁所在地である。人口は210,565人(2010年国勢調査)〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日.〕。ニューヨーク、バッファローに次ぐ州第3の都市である。モンロー郡を中心に5郡にまたがる都市圏は1,054,323人(2010年国勢調査)の人口を抱えている〔。 市はかつて''Flour City''(小麦粉の街)と呼ばれた。時代が下ると、同じ発音で''Flower City''(花の街)とも呼ばれるようになった。このほか、ボシュロムやイーストマン・コダックが本社を置き、ゼロックス創業の地であるロチェスターは''The World's Image Centre''(世界のイメージの中心地)という別名も持っている。 また、ロチェスターは学術都市としての要素も持っている。ロチェスター大学はUSニューズ&ワールド・レポート誌の全米大学ランキングで常に上位に入る高評価を受けている。その音楽学校であるイーストマン音楽学校はニューヨークのジュリアード音楽院、フィラデルフィアのカーティス音楽学校と並び称される高水準の音楽学校である。ロチェスター工科大学は工学系の私立大学で、これも高い評価を受けている。これらのほかにも、ロチェスターとその近郊には14の大学がキャンパスを置いている。 なお、ニューヨーク州には「ロチェスター」という地名は2ヶ所に存在する。1つはこの項目で述べるモンロー郡のロチェスター市、もう1つはニューヨーク都市圏の北端、アルスター郡にあるロチェスター町である。ただ単に「ニューヨーク州ロチェスター」といった場合、たいていはこのモンロー郡のロチェスターを指す。 == 歴史 == 1803年11月8日、ジェネシー川沿いのおよそ40haの土地がメリーランド州出身のネイサニエル・ロチェスター大佐、チャールズ・キャロル少佐、ウィリアム・フィッチュー大佐によって購入された。ジェネシー川に3本の小滝がかかっていたこの地は、水力発電を行うのに良い場所であると考えられた。1811年初め、3人の創設者たちはこの地の調査を行い、街路を敷き、人口15人の村をスタートさせた。1817年には、ブラウン兄弟ほか地元の地主は土地を提供し、ロチェスタービルの村が創設された。 1821年、ロチェスタービルはモンロー郡の郡庁所在地に指定された。1823年には、ロチェスタービルの村域は4km²におよび、2,500人の人口を抱えていた。またこの頃から、ロチェスタービルの村は単に「ロチェスター」という名で知られるようになった。この年、ジェネシー川をまたぐエリー運河の水道橋が架けられ、ジェネシー川以東、ハドソン川へと通ずる部分が完成した。後に鉄道が敷かれると、町の中心部に通っている運河は邪魔なものとなったため、中心部の南に流路変更がなされた。1830年にはロチェスターの人口は9,200人を数え、1834年には市として正式な自治体に再指定された。 最初は、ロチェスターは''The Young Lion of the West''(西の若き獅子)と呼ばれた。次いで''Flour City''(小麦粉の街)と呼ばれるようになった。1838年頃には、ロチェスターは小麦を生産する都市の中としては当時のアメリカ合衆国領内で最大であった。また、10年の間に人口を倍増させたことから、ロチェスターはアメリカ合衆国史上最初の「急成長都市」としても知られた。 1847年、フレデリック・ダグラスは、ノース・スターという奴隷制度廃止論者寄りの新聞を発刊した。元奴隷であったダクラスは、自由州ニューヨークにあるこのロチェスターで奴隷制度廃止論を唱える演説者・記者となり、アメリカ合衆国内のみならず、ヨーロッパやカリブ海諸島にもノース・スターの読者を広めた。4,000部以上が購読されていたノース・スターは、奴隷廃止論者の見解を表明する重要なフォーラムとしての役割を果たしていた。 20世紀に入ると、ロチェスターは繊維産業、特に男性用衣料生産の中心地ともなった。ファッション・パークやヒッキー・フリーマンといった企業はこの時代に生まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロチェスター (ニューヨーク州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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